仏教に学ぶ生きやすさ2〜中道の考え方を覗いてみよう! 前編〜

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《しゅん45 さんによる写真ACからの写真》

こんにちは。ハルちゃんです。4月に入り、新生活のスタートという方も多いのではないでしょうか!2022年も4半期が過ぎ、改めて時間の流れの早さを感じる今日この頃です。

さて、今回は仏教のシリーズ第2弾です。前回でもお伝えしました通り仏教には人生を快適に過ごすための様々な知恵があります。今回は『苦楽中道』という考え方をご紹介します♪さらに、そこから中国古典に登場する『中庸』の考え方との考察をしたいと思います。 また、後半となる次回投稿ではこの中道から心理学の『リフレーミング』を応用した考察を予定しています。

注)本記事の内容にはハルちゃんの個人的主観に基づく考察が含まれておりますので予めお含みおき下さい。

前回のおさらい

《makoto.h さんによる写真ACからの写真》

まずはかるく前回のおさらいから♪
仏教は古代インドのゴータマ・シッダッタ(←お釈迦様のこと)という人物を起源とする宗教になります。古代インドで栄えた仏教はその後中国に伝わり、やがて日本に伝わり今に至ります。仏教の教えは人生を快適に生きる為の様々な知恵があります。前回はその中から第二の矢の話をご紹介しました。
*前回の記事はこちらのリンクからもご覧になれます。
今回ご紹介する苦楽中道の基礎はそのゴータマ・シッダッタ(以外、ゴータマと表記)が仏教を興す以前のエピソードが所以になっています。

苦しい修行の果てに知り得たもの

《シュンgvs さんによる写真ACからの写真》      *尚、写真はイメージです。

ゴータマは元々王族の家柄に生まれ、裕福な暮らしをおくっていたといわれています。そして20代で出家しました。その後、仏陀(目覚めた人)となるまでに様々な修行を行いました。瞑想により心を無にするものや、断食等の自身を傷つけるアプローチをしたといわれています。裕福な暮らしと苦行の両極端を体感する中で、ゴータマは極端に自身を痛めつけることも、逆に自身に甘すぎるのも良くないという主旨の結論に至りました。
これが苦楽中道(以下、中道と表記)のザックリとしたロジックになります。

さて、ゴータマとその弟子との会話にこの中道の要諦を示しているエピソードがあるので以下にご紹介します。

琴の弦の話

《やまかずちゃん さんによる写真ACからの写真》 *尚、写真はイメージです。

ゴータマの弟子にソーナという大変頑張り屋さんな人がいました。ソーナはその頑張りを最大限修行に向けていましまが、思うような成果に至らずに苦心していました。

そんな折、ゴータマがソーナに質問しました。

「琴の弦が硬いと良い音が出せるかどうか」*ソーナは琴の名手だったそうです

ソーナは答えます。

「いいえ、良い音は出せない」

ゴータマはさらに問います。

「それなら緩めれば良い音が出せるのか」

ソーナは答えます。

「緩ければ緩いで良い音は出せない」

そこでゴータマは以下のように問いました。

「それではどうしたら良い音が出せるのか」

ソーナは

「緩すぎるかなれ、けれど張りすぎるなかれ。バランスをみてちょうど良いところで調整する」

と言いました。
この答えに対しゴータマは

「修行も同様である。気合い入れて頑張り過ぎると不必要に気分が高揚してしまい、ダラダラやっても成果には繋がらない。バランスを取ることが大切なのだ」

という主旨のことを言いました。
このバランス、調和こそが中道の考え方のポイントです。
仏の修行を琴の弦に例えたエピソードになりますが、これは仕事や日常生活にも活用できるロジックといえます。日頃諸々でちょっと偏りがちを感じている方は是非、この中道を意識してみてはいかがでしょうか。

中庸との違い

今回ご紹介しました中道と良く似た言葉に中国古典に登場する「中庸」の考え方があります。中庸については、以前ひとつの記事としてあげていますので詳しくはそちらをご覧下さいませ!

そして実は中庸と中道とは、とても似ているのですが、実際のところ少〜し違ったりするようです(ただ、物事の適正量の大切さを説いているという点においては共通する考え方だと私は思っています)。では、どう違うのか。

注)ここでの説明、事例は執筆者が知り得た情報を基に展開しております。入念に調べた上でお伝えしておりますが、万一実際の通説と異なる点があった場合はご容赦下さい。

ここではお酒を例に考えてみましょう。
よく「飲み過ぎ」なんて言い方をすることがあるでしょう。それに対して「程々に」という対応をします。それではそもそもどれだけの量が「飲み過ぎ」だったり「程々」だったりするのでしょうか?

仮に、生ビール中ジョッキ10杯を「飲み過ぎ」としましょう。
その数値に対して丁度半分の量、つまり5杯が「程々」というのが中庸のロジックであるようです。
なるほど『有坐の器』の件(くだり)を文字通り読み解けばそれも理解できそうです。
では中道ではどうでしょう?中道ではそもそも「飲み過ぎ」も「程々」も個人差があるからそれによって適正量が変わるので、生ビール中ジョッキの量は各人異なるという視点にたちます。例えば酒豪といったアルコールに強い人と、そうでない人とでは当然その量は変わってきます。なので、生ビール中ジョッキの量が3杯だったり1杯だったりします。あるいは、そもそも体質的にアルコールが全く飲めない人もいます。従いまして、中道で提唱する「飲み過ぎ」と「程々」の量は人それぞれ、そして時と場合によって変わってきます。 これは購買でもいえることですね。繁忙期と閑散期では仕入れのボリューム感は当然異なってきます。

尚、これは私の勝手な解釈ということを前置きした上で申し上げますが、

中庸は「適正量」の大切さをいっており、

中道は「適正量」を見極めて実践することをいっている。

と捉えることができるのではないでしょうか。

おまけ

今回は以上になります。このサイトを開設して2年が経ちました。ホントなら初投稿の日に合わせてロジャーズ第二弾とかやってもよかったのですが、なにぶん仕事も私事もすこぶる充実してこちらの執筆にかける時間の確保が間に合わないというのがありますね。まあ、いいことなんですがね✨
というわけなので、以前もお伝えしましたとおり今後も不定期での投稿となりますのであしからず、よろしくお願い申し上げます。

それでは、今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!

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